愛する我が家を離れて ~「屋根の上のヴァイオリン弾き」を故郷で親や旧友と観てきた~

屋根の上のヴァイオリン弾き」という往年の名作ミュージカルがある。1905年ごろ、ロシア帝国末期のユダヤ人集落を舞台にした物語で、「サンライズ・サンセット」をはじめとした名曲を持ち、森繁久彌西田敏行、今は市村正親が主人公テヴィエを演じている。

母は約50年前にニューヨークで、私は約20年前に学割で観たこの演目に関して、私と母は複数回観劇で向き合うこととなった。いわずと知れた贔屓役者が出演することになったからである。幸い名古屋公演もあったため、緊急事態宣言が解除されるかされないかのこのタイミング、「伝染さない」を心がけながら母と、ついでに父も、さらには名古屋の友人とも観てきた。もちろん本公演に相当する日生劇場でも観たのですが、今日はそれが「マイ楽」を迎えたので記念に記しておくことにします。

 

舞台となるユダヤ人集落は「しきたり」を大切にする土地柄、昭和的なアットホームといかにも田舎なおせっかい、うわさ好き、連帯感にあふれた場所で、おそらくその当時でも時代錯誤な世界なんだと思う。最終的にユダヤ人排斥運動で村を追放されてしまう話であり、まじめに勉強すれば題材は重く、しかし元来日本では喜劇役者が演じているだけあって重くなりすぎない淡々とした描かれ方で、とりあえずざっくりとしたメインストーリーは「年頃の3人の娘の結婚」なせいか、はたまた3日間5公演の短期公演だったせいか、それとも緊急事態宣言が明確に明けてハレ感があったのか、名古屋公演のほうが客席が熱かった。私も最初はタイムスリップ感半端なかったけれど、日を追うごとに味わい深くなり、あたかも海外旅行をしているかのように楽しむようになり、結局は楽しい公演でした。出演してくれてありがとう贔屓!

 

「屋根ヴァ」(「屋根上」「屋根ヴァイ」との説もある)は、大規模公演だけれどセットも手作り感のあるかわいらしい雰囲気で、地味だがホッコリの作品である。「今年のキャストは」「ちょっとした演出変更は」などの議論は作品マニアの皆様にお任せするとして、結婚して故郷を出てしまった私としては非常に刺さる部分のあるものだった。主人公一家は女の子ばかり5人の子供がいて、結婚適齢期に当たる上の3人がそれぞれ、お見合いおばさんの引き合わせで結婚するのが当たり前の「しきたり」だった親世代が思いもしなかった形で結婚を決めていくのだけれど、今回は、その3人の結婚について思ったことを残しておく。

 

長女のツァイテルは、お見合いおばさんにやもめの肉屋のおじさん(金持ち、ただし主人公である父親よりも年上、しかも父親は馬が合わない)を紹介されて一度は勝手に親が承諾していた中、恋が芽生えていた幼馴染の仕立て屋(儲からない仕事)との結婚を主張して、認めてもらう。村人総出で心のこもった結婚式をし、子供が生まれ、親の家の近所に住んでいる。ちなみに一幕はこの長女の結婚話でほとんど終わってしまう。

次女のホーデルは、父親が気に入って家庭教師にと連れてきたキエフの大学生との結婚を選ぶ。学生は最初からリベラルで、革命思想があり、学生運動に身を投じると同時にプロポーズをし、婚約した状態で村を出ていった後、シベリアに流刑される。次女は彼を追ってシベリアに行き、手紙によると彼のために働きながら「世界をひっくり返す」と革命思想に燃えているらしい。

三女のチャヴァは、村の管理職的なロシア人たちの中の青年と恋に落ちる。長女・次女の時は何となく認めていた娘に甘いパパである主人公テヴィエは、しかしこれだけは認めず、結局三女は駆け落ちする。同じ村に住んでいるけれど交流がない状態で、最終的に村を追放される段階になってようやく会いに来た三女に「達者でな」と顔を合わせずに言う。

 

長女のお見合いおばさんの紹介を無視した結婚で長年の「しきたり」が破られたのを皮切りに、娘たちが軽々とさらに高いハードルを越えていく中、最終的にはその小さくまとまった村そのものが跡形もなくなってしまう、そして歴史的にはそれがロシア革命につながっていくのだけれど、私はやはり、「親が喜ぶ結婚ってなんだろう」と思ってしまった。

私は「とりあえず、このあたりで決めておかなければ一生後悔するかもしれない」という極めて消極的な理由で結婚をした人間なのだが、親はそんな私の焦りは全く知らず、「もっといい人がいるんじゃ…」というのがあからさまだった。そして今になっても、自分は親不孝者だなあ、と思うことがしばしばある。何せ、毎日連絡はしているけれどめったに実家には帰らないし、ついに孫を抱かせてやることはできなかった。

今回観劇に付き合ってもらった友人も含め、私の周囲の同世代の女友達のほとんどが、実家のそばに住むかどちらかの親の家を二世帯に改築するか同じ敷地内に離れとして新築して住み、子供(=孫)がいて、毎週のように行き来をして過ごしているからだ。古くなった実家で野良猫の保護活動に血道をあげている親を見ると、少しの後悔と自責の念がわくことが正直、人が思っているだろうよりは意外とあるのだ。

 

そんな私から見ると、たまたま最初のひとりだったから大騒ぎだっただけで、長女ツァイテルの結婚なんて実は相当理想的だと思う。そして、お見合いおばさんの紹介相手は主人公の父親テヴィエにとって「嫌いな奴」「俺より年上の男のパパになるなんて」でそもそもそんなに気が進んでいるわけではないし、仕立て屋は気が弱いけれど優しく、貧乏でも「中古のミシンを譲ってもらったら結婚を申し出たいと思っていた」、つまり設備投資をして作業効率を上げ稼ごう、という気概は持っている。

次女のホーデルが選んだ相手・学生はなかなかにリベラルで若さゆえに過激で危険な男だけれど、もともとは「学のある人が好き」という設定のあるテヴィエが気に入って連れてきた人間なので、それはもう、何か起きても俺の責任、という自覚はあるだろう。当初は村を出ていくという学生に対して「俺はあんたが本当に好きだ、でもさようなら」と言っていたけれど、そもそも自分より年若い男にリップサービスでも「本当に好きだ」なんてなかなか言えないと思うし。

これを自分に当てはめると、まあうちの夫は見た目・性格・ステータスともさえないから別に親は今でも気に入ってないと思うし、勤務地は名古屋から離れる一方だし、「負けた…」と思ってしまうのである。つらい。

 

しかし、そんな私も三女のチャヴァよりはましかな、と何となく思うのだ。理由はない。民族も宗教も違い、いやむしろ対立している(個人レベルではそれなりに仲良くしているロシア軍の駐在さんが「お偉方のデモンストレーション」でいきなり敵になって破壊行動をしてくる)ロシア人の三女の恋人について、民族や宗教に関して至ってぼんやり生きている日本人の私は、そんなに悪い男だとも思わない。そして私の夫だって、名古屋の人間ではない、東京の金持ちの息子というようなキャッチーさもないという意味で、親にも人種や民族の違いに等しい明らかな抵抗感があるのはわかっている(いっそのこと、外国籍のセレブとかのほうがよっぽど喜んだと思う)。…でもまあ、チャヴァよりはましかな、と何となく思えるのである。何となくだけど。そしてその「何となくマシ」こそが、単純に民族が、とか宗教が、という明確さを超えて、テヴィエの許す・許さないのボーダーラインとして、案外今にも通じているのではないか…と思う次第である。まあ、そう思っておいたほうが気が楽だから、いいや。

 

とりとめもないのですが、タイトルの「愛する我が家を離れて」は次女チャヴァが婚約者を追ってシベリアに旅立つときに父親を隣に歌うロングナンバーです。コロナ禍の中で実家できちんと泊まったり家族3人で食事したりしたのは丸1年ぶりだったのですが、それだけに心に来るものがありました。

 

興味のある方は今週末(3/12-14)、市村正親さんの故郷・川越で公演があるようなので、関東近郊の方はぜひチケットを探してみてください。たぶんまだぴあとかで売ってたりすると思います。