おとめ、開封 〜(元)お嬢さまのチケット編

「もーーーーーーーーー何なのようこの席、ナメてるとしか思えないわ! 後ろから5番目の席なんて、屈辱よ、屈辱!」
母がものすごい勢いでスカイプしてきたと思ったら、私が阪急交通社で取ってあげた“宝塚歌劇団 雪組全国ツアー公演『ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−』”名古屋公演のチケットが届いたものの、その座席(S席・1階25列目センター)が非常にお気に召さなかった模様である。


ダメかね、いちおう一般発売では全日程(とは言え地方公演扱いだから、名古屋は2日間4公演のみ)即日完売だった公演なんだけど…というわけでまさかのチケットネタ3連発ですすみません。


「私、中学高校の頃、ライブとかでさんざん市民会館に行ったけど、そのあたりの席なら1階ってだけで躍り上がってたけどなあ」
「だってママは、この間の3本立てまで、宝塚は10列目以内のセンターでしか観たことなかったんだもの…っていうか、そもそもチケットって自分で窓口で買った記憶がないのよ。


そんないい席、私がヤフオクやらチケット流通センターやらで無理矢理買おうとしたら1枚こっきりでもいくらかかるか…謎である。
気になったので、母の観劇の記憶をヒアリングしてみた。話の中でキラ星のごとく並んだ50〜60年前の宝塚スターの名前もついでに記録して、ゴールデンウィークに阪急交通社のバスツアーに参加した暁には、母と共に、新しく劇場内にできたという『歌劇の殿堂』なる展示コーナーを熱く眺めようと思う。

1957〜1958年頃:数回、家族で観劇。5人家族全員で2列目センター席に座るのが基本。当時の名古屋公演会場は名古屋駅名鉄ホールで、名古屋駅前で商売をしていた父親(私の祖父)のコネで回ってきたチケットの可能性が高いと思われる
1958〜1963年頃:宝塚歌劇友の会に入っていた姉ふたり(長女:ご贔屓は寿美花代→眞帆志ぶき、次女:ご贔屓は藤里美保→甲にしき)にお任せ。中でも遠征時は“友の会の斡旋する宿舎”に泊まっており、宿泊者には良い席が割り当てられたのではないかと思われるとの事
1963〜1965年頃:クラスメートであった当時の名古屋では老舗とされていた料亭の娘に声を掛けられ、ともに観劇。宝塚大劇場では、「楽屋に入りご贔屓だった那智わたるさんと握手してもらう」という栄光の時を過ごす
1965〜1973年頃:もう一人のクラスメート、兼宝塚ファン仲間が宝塚音楽学校に合格、のちに順調にタカラジェンヌに。とは言え那智わたる退団後あらたなご贔屓を見つけるには至らず、友人の出演する公演とその頃は既に中日劇場になっていた名古屋の定期公演をメインに足を運ぶ

お父さんの駅前のお商売の関係かしら、とか、老舗料亭の娘、とか、挙句に「現役タカラジェンヌ」まで出てきてしまっては何だかもうどうしようもない。やっぱ、どの業界でもコネって強いよねー。そこで私が敢えて気になったのは“友の会の斡旋する宿舎”というくだりである。
「これってさー、この阪急交通社のパンフレットにある“宿泊プラン・1階SS席1〜3列目確約・ホテル阪神2名様1室・ひとりあたり32,700円ってやつじゃないの?今で言うとさ。」
「えー、そんなに高かったのかなあ。そんなに高くなかったんじゃないかしら、そんなホテルなんて立派なものでもなかったし。どうなのかしら、何せAちゃんHちゃん(私の伯母たちの愛称)が全部やってくれてたから記憶にないわ…」


そうか、わかった。中学・高校時代の私が、朝から何時間も電話を占領して泣きそうな顔でリダイヤルを繰り返したり、家出同然の体で朝暗いうちから勝手にプレイガイドに行列しに行ったり、ファン仲間に立て替えてあげていたチケット代を払ってもらえず「親を出せ!」と電話で怒鳴りまくって大喧嘩したり、どう見てもそこらのチンピラっぽいダフ屋と丁々発止の駆け引きを楽しんでいたりする、なんというか非常に血気盛んな様子を黙認してくれていたのでありがたい親だと思っていたのだけれども、きっと“黙認”じゃなくて“理解できなかった”んだろうなあ。ここへ来て、20年も前の母のおっとりした対応がようやく理解できた私である。…しかしともあれ、残念ながら母はすでに名古屋のお嬢さまではなく、永遠のチケット一兵卒である私の母に過ぎない。席がさして良くないことくらい我慢してくれ、頼むから。


しかしそうストレートに言ってもつまらないので、思わず「フッ、お嬢さまはこれだからねえ…」と、微妙に宝塚歌劇の男役っぽいセリフ回しで皮肉気にニヤリと笑いつつ母に吐き捨ててやった私です。