世紀末トーキョーナイト

ジュリアナ東京”に続き、麻布十番の“マハラジャ”がクローズして、期待の“ヴェルファーレ”は只のイベントホール化し、いわゆる“ディスコ”の時代が完全に終わった時代。
私が東京にいたのはそんな時期でした。この頃、東京のナイトシーンを牽引してたのはより小箱の“クラブ”。今日は、昨日ちょうどその頃の東京の夜を良く知ってる人と出会ったので、品行方正女子学生だった自分なりにその頃の思い出でも。
ナンパ待ちするなら渋谷の“Fura”(キムタクのドラマでも「フーラ行く?」なんて言葉が出てきましたね)。コギャルブーム華やかなりし時代だったので、渋谷はそういう場所がたくさんあった。ブラック系なら“WALL”なんかもあったし。6年の交際期間を経て東大院卒・T工務店建築士と結婚した友人Cの、ダンナとの出会いは円山町の“Club Asia”で「ダサい東大生にナンパされちゃってさ〜」だった事を忘れてはいけない。(ちなみにご両親はその事を知らない) もうちょっとお姉さんには芝浦の“The EARTH”も人気あったみたい。私たちは、せいぜい青山の“M”くらいが限界だったけど。バカな医大生とか代理店の男とかゴロゴロしてたなあ。
当時割と好きだったタイプの音楽を比較的かけてたのは西麻布の“YELLOW”。サークル関係で知り合ったDJの男の子が回してたりとかもしたんで、良く行きました。上品なハウスとか、アシッドジャズの生バンドとかも入ったりしてイベント次第で純粋に音楽聴ける箱だった。ドラァグクイーンのお姉さまもウロウロしてて面白かったな。当時吉祥寺に住んでたんだけど、西麻布って吉祥寺からだと不便なんですよね。渋谷まで出てタクシー、が一番賢かった。今でもそうだと思うけど。
他にも恵比寿の某所とか好きな場所はあったけど、とりあえずそれよりもうちょっとヤバそうだなー、って場所だったのが六本木。世紀末の六本木はガラ悪い外人だらけでマジやばかった。大学の性質上外人マニアの子も周囲にいて、あと当時友達の先輩の友達みたいな感じで仲良くなったNテレの正社員ADが六本木大好き野郎だったりして、何回か行ったのが“GASPANIC”。当時は何フロアかに分かれてて、外人が喧嘩してたりオーバードーズで泡吹いてたりしてホントやばかった。(H山さん、その後営業に異動して凹んでたけど、こないだの24時間テレビのクレジットでプロデューサーとして名前出てたなあ。お元気なんでしょうか。)好きな空間ではなかったけど、あの黒いヴァイヴは只事じゃなかった。今でもあるのかな。っていうかあそこが好きだった純ジャパニーズってスゲエ神経だと思う。
今でも思い出すのはナンパ待ち系のクラブの音と夜明け。日付が変わる頃MISIAのデビュー曲がかかって、めっちゃ眠い頃に「5,6,7,8」と超高速ミックスのハンソン「キラメキ☆mmm bop」(だっけ)がかかって、ABBAの「ダンシング・クイーン」がオリジナルでかかる頃にはもう夜明け。巨大なオツムのカラスを蹴散らして駅に向かう空気は、やたら美味しかった。時間帯的には、今、仕事がある日に起きる時間帯とちょうど一緒なんだけどなあ…。


【Japanese Restaurant 宙(SORA)】  同伴族と接待族の姿がよく目立つ、錦三の日本料理屋。ただし味は上品で美味しいので、コンテンポラリーさのあるルックスとは裏腹に正統派の和食を食べさせてくれる店と言える。8,000円のコースを食べたらマツタケだらけだったので、コストパフォーマンスは納得の線かも。焼酎も好みのものだけがあって◎。
http://www.bar-and-restaurant.com/detail.php?id=S10490#