夢のあとさき

ついこのあいだ日本に本帰国した、本当にお世話になった駐在マダム・Sさんが、風の噂によるとこの暑い中スーツを着てシュウカツをしているという。40代後半という年齢とは言えそこそこ使えると言われる資格を持ち、この国に来る前はメディアにしばしば扱われるような場所でその資格を活かし「先生」と呼ばれる仕事をしていた彼女も、それなりに苦戦しているという。そんなばかな、あの資格を持つ人を募集する広告なんていくらでも見かけるというのに。


また、そんなつもりではなかったのにふとした事をきっかけに私とは何だか微妙な感じになってしまったもと医療系専門職キャリアガール駐在妻・Kさんも、まだまだ任期のあるご主人を置いてひと足先に本帰国する事を決めた。理由は、「やりたいことがあるから。ブランクがこれ以上広がると働けなくなるし」。彼女の持つ医療系の資格は、実質的にはだれでも時給900円でできるような業務内容でもその資格を持っているとなると一気に時給2,500円は下らなくなる、にもかかわらず常に求人は絶えない…というものだ。ただしこの国に来る前は、業界でも5指に入るという大手医療系企業のオフィス勤務でいわゆるアラフォーの年齢にして推定年収が1千万円近かった、と、かつて腹を割った話ができた頃に言っていたので、同じ業種とは言え私が認識しているそれとは格が違うのかもしれない。


まったく資格を持たない私はというと、かつて住んでいた家からドアtoドア信号の待ち時間込みで10分かからない、要するに目の前のような場所にある、生鮮に強いコンビニエンスストア(営業時間は6時〜24時)にいつも貼りだされていた広告が忘れられない。6時〜9時は1,200円、それ以降18時までは900円。早朝勤務できる人歓迎、週3日から。レジではいつでも、中年女性や中国人留学生パートタイマーの姿を見かけた。
…うーん、オットは朝家を出るのが早いから6時からガッツリ入れるとして、6時から11時まで働けば日当たり5,400円。平日とヒマな土日をバラしてシフトを組んでもらって週4日勤務、4週間、12か月と考えればちょうど扶養の範囲内に近い感じになるなあ、年末年始で実家に帰るときにそれをタテにすれば調整できるし、などと机上の計算を思わずしていた会社帰りの23時を思い出す。平日の昼間がほぼ自由になる状態で月に8万円強、それだけあれば美容院のランクを落とさなくていい、働き先の店さえ衛生上の許可が下りればジェルネイルも月に1回メンテできる、友達とランチや飲みに行けてデパートでちょっと割高な洋服も躊躇することなく手に取れて本やらDVDも好きに買えて2ヶ月に1回くらいは15,000円くらい(邦楽ならヤフオク、洋楽なら定価、オペラなら桟敷席で試算)のライブも行ける。余ったお金を貯めればちょっとした海外旅行に行く費用も捻出できそうだ。どうしよう、一念発起して年度末の年俸更新時にスッパリ辞めるか。今のままの生活よりはその方がずっといいな。結局、年度末を待たずにオットの海外赴任が決まり、さっさと退職を申し出ることになったのだけれど。


なんか日本の流れ的にあの時とはすっかり事情が変わっちゃったじゃんアベちゃんのバカ、と思いつつ、じゃあなんであのひとたちはそんなに再就職に必死なのだろう、と思う。プライドか。私の目につくようなバイトのような仕事では、彼女たちの都会的で美しいキャリアや苦労して取った資格の誇りが許さないのか。あるいは、そもそも商品の搬入とか在庫計算とかそういう仕事をする自分が考えられないのか。それともご近所に「あそこの奥様、●●でパートしてるのよ」と言われるのが自分で許せないのか。いや、Sさんは諸事情で持ち家のマンションは人に貸したままだと言っていたしKさんはうちとほぼ同じ状況で共同購入したマンションでDINKS生活を送っていたから近所づきあいなどろくにないはずだ。


あたし全然平気だけどなあ、だって銀座でマーケティングの仕事してたって言ってもチラシやパンフレットの搬入でしょっちゅう力仕事してたし、その前に至ってはメーカーの総合職、プロジェクトマネージャーと言いつつガテンに作業着着てしょっちゅう部品を現場に運んでたしなあ。朝なんて毎日5時半起き、北米と会議する時なんてもっと早かったし。え、人の目? もしも、メーカー時代や銀座時代を知る人、「気の強い女ばかりの女子高」や「気の強い女が自由に生きられる大学」時代のクラスメートが近くに住んでいたって、逆ににっこりレジで「わー!」って笑って喜んじゃうけどな。だって、ワーク・ライフ・バランスには代えられないじゃない。


…ああ、彼女たちは、この遠い国に「駐在員の妻」というニッチな枠で流れてきたからこそ知り合えた人たちなんだな、とあらためて思い知る。これから先、日本に帰っても、おそらく私が彼女たちとわざわざ個別で会って遊ぶなどという事は、きっと二度とないのだろう。