あらためて、個人的な思い出としての東日本大震災を思い出す。

アメブロのほうにSide-A、半・パブリック版も書き残しています。まああれだ、モノゴトは2面性があるのよ。】

日本時間、3月11日14時46分。
東日本大震災が起きた時、私は銀座で会社員をしていました。(夫は、海外出張中。)

その後の顛末は、まだよく憶えています(もしかしたら、その後、「海外引越し」という非日常の中にいたからかも)。
机の下に潜るも、キャスターのストッパーを下げていなかったキャビネットが転がってきて、頭をぶつけた地震発生時。何となく実感がないまま避難して、同僚も見知らぬ人も呑気に「地震なう」「避難なう」とiphoneでつぶやいていた、ぎゅうぎゅう詰めの日比谷公園。東北の惨状を知ったのは、帝国ホテルのロビーに急遽設置されたテレビだった。

会社のあるビルが築40年のおんぼろビルで、避難階段のリノリウムの床が微妙に隆起していたのに恐れをなした私は、
とりあえず横浜の家に帰ろうとして、とにかく歩いた。(ただし、国道1号踏破はムリだと判断して、あくまで交通機関利用狙いで) 
動く、もしくは動きそうな電車やバスを求めて人ごみの中をさ迷った東京駅、じっと何時間もバスを待っていた新橋駅、寒すぎて、待ち過ぎて、運転再開を告げられた時には皆ハイになっていて、謎の拍手喝采が巻き起こった渋谷の東急東横線ホーム。


ちなみにあの時は金曜日で、言うまでもなく3月で、街には花金を楽しむサラリーマンや卒業式帰りの大学生が溢れていた。報道では、「黙々と家に帰る勤勉な日本人」ばかりが喧伝されていたけれど、今だから言おう、「まあ電車走らないからオールだな」と平気で騒いでいた人だって、有楽町にも新橋にも渋谷にもいっぱいいたぞ。
「お前の実家、仙台だろ、大丈夫か」とクラスメートに言われて「知らなーい、だってどーせ電話とか通じないしー」と屈託なく笑っていた袴姿のあの子、ご家族など無事だったのだろうか。今でも気になる。


あ、ちなみに震災発生時は、まだ東京は普通にネオンもギラギラしていました。(原発がおかしくなったのはその後だから、当たり前なんだけど)


そうそう、何も知らないオットは「おはよう!moeringalは週末だね」というメールをくれて、その後、現地チャンネルの海外ニュースに気づいて慌てて電話をしてきたっけ。
今、新興国と言われる国で生活している中、電気が使えなかったり日常生活でいろいろ理不尽で不自由な事があったりするのだけれど、そんな時のオットのキレっぷりや不機嫌っぷり、「こんな国は嫌だ、日本に帰りたい」という口癖には正直、辟易している私。日本がいい、いいって言うけどさー、日本だってたいがいだってば。
…でも、オットはあの時の日本を全然知らなかったんだったね、そう言えば。(彼は「ポポポポーン」というあのCMすら、大して印象にない様子)


ポポポポーンと言えば、原発に関しては東電も国もあまりにも隠蔽主義で、後手後手で、今でも非常に腹が立っているのは事実。まあ今、私が住んでる国もよくわかんないんだけどね。そもそも自然放射能とは言え、1Svくらい軽く検出されてる街もあるらしいし。今度日本に帰ったら、ガイガーでも買おうかしら。

とは言え、震災当日に反原発デモをする人たちっていうのはなんだかなー、と日本の報道を見て思う私なのでした。
死を悼む日は悼んだ方がいいんじゃないかしら。まだ1年しか経っていないんだし。