ゴールドラッシュ

moeringal2009-06-17

この1ヶ月ほど、結婚の先輩にして立役者(何を隠そう、彼女の結婚式のブーケを引き当てた事で、私は結婚と言うものに対してある意味腹をくくったのだ)である友人のiwakoさんに、彼女が新婚生活を営む豊田市で2回程お会いした。ついでにご主人のSちゃんにも時間をいただいてそのラブラブっぷり、男前ぶりもたっぷりと堪能させて頂いた(優しいiwakoさんの日記では私の相方を「かっこいい」と評してくれていますが、それは彼女の大いなる気遣いに他なりません! 少なくともSちゃんの方が身長も普通にあるし濃い顔の男前なのですよ)。その内容を素直に書き綴りたい気も山々なのだが、それはまた別の機会に。 今回はその帰り道、ひどく感傷的になってしまった話を書こうと思う。


豊田市で飲むのは久しぶりだった。土曜日の夜だと言うのに(いや、案外もともと若者は名古屋に出て、家族持ちは一家団欒しているのがこの街の土曜のスタイルなのかも知れないけれど)豊田市駅付近は閑散としていて、この2〜3年で著しく増えたこじゃれた飲食店の看板の光も心なしかもの淋しく感じられた。昔からアジアンカレーにはめっぽう強い嗅覚を示すiwakoさんに案内してもらったインドネシア料理のレストランも私たち以外の客は一組いるかいないかという状態で、使い込まれた雰囲気のインドネシア語/英語併記のメニューが、かつてどれだけ多くの外国人客がここを訪れていたかという事実を物語っていた。

2軒目、ご主人のSちゃんが行きつけていると言うバーの扉をくぐった時、私は何ともいえない感情に襲われた。

その壁にはたくさんの帽子が飾られていた。多くの帽子には、あの自動車会社やその大手サプライヤーのシンボルマークが冠せられ、そうではない帽子には、それらの海外事業体がある地域の国旗や地名が刺繍されていた。そしていくつかの帽子には何人もの、日本人を含めたスタッフのサインが寄せ書きされていて、その中には、明らかに私が担当していたプロジェクトのスタッフ達が置いていったものと思われる帽子があった。
…そう言えばこのバーの目の前にあるホテルはあのプロジェクトの現地スタッフが定宿にしていたな、と今さらのように思い出した。先程のインドネシア料理店同様、英語のメニューを完備している、そして私たち以外には日本人の客がわずかにいるかいないか…というバーのマスターは、「何かねえ、外人さんがすっかり減っちゃって。」と少し淋しそうに言う。知っている人たちのサインが寄せ書きされた帽子から、ますます目が離せなくなった。

日本サイドのサポートスタッフの中には、今でも私が勤務する工場で毎日顔を合わせる人もいる。でも、あの頃毎日のように会ったり、話したりしていた人々の殆どは、既に異動するか、もしくは本国に戻ってしまった。出張規制がかかった今では、仮に同規模のプロジェクトがあったとしても、来日できる人はもっと少なくなってしまうだろう。シーユーネクストプロジェクト、なんてあの時は軽く言っていたけど、もう2度と会えない人も多い。全く別の事情で会社を辞める事になる人もいるわけだし。


そうだ、かつてここにはゴールドラッシュとでも言うべき熱狂があったのだ、確かに。実際私たちは、国の境界を超えて乾杯をし、言葉の壁なんてものともせずにひとつのプロジェクトの成功を祈り、笑った。


今まで、あえて実名で言ってしまえばフジテレビやら電通やらゴールドマン・サックスやら三井物産やらに勤務する知人に、「今、名古屋とかトヨタってスゴいんでしょ? 楽しげでいいなあ」と言われる度に私は否定してきた。給料なんて彼らの半分ももらっていないし、そのくせ仕事は決して楽じゃない上何かと地味(少なくとも私はそう思っていた)だし、田舎にあるから遊ぶ余地も余暇もさしてあるわけじゃない(そのくせ物価は妙に高い)。別にスゴくも何でもない。一方では「南アが」「ケンタッキーが」「ロシアが」「中国が」「ブラッセルが」などと、どこの商社マンかと言うような単語も交わしていたし、広告会社のオヤジが私たちのような小娘に菓子折りを持ってくるような一幕もなくはなかったけれど、あくまでも生活はただ目の前にある業務をこなし、唯一土曜と日曜の午後だけ遊ぶのが精一杯で、仲間でバーベキューやボードに行く以外のデートと言えば三好のジャスコの映画館、もしくは長島のアウトレット。ともあれさっさと結婚して社宅に住んで30前には持ち家を買う…というのが私たちに漠然と与えられていた青写真だった。どこが楽しげなのだ、と真面目に思っていた。

今にして思えばアタリマエではないこともアタリマエだと思ってはいたな、と思う。地に足をつけて生活しているように見えた同期や後輩も、実は住宅ローンは残業代込みを想定してかなり高額に借り入れていた…なんて話もよく聞く。決して華やかでもバブリーでもないけれど、きっと誰しも、それなりの夢は見ていたのだ。

そしてあの頃、この街には、日本中・世界中から、様々な人たちが集まっていた。それも事実だ。自動車ビジネスそのものばかりか、それをキーにした見関係ないように見えるありとあらゆる業界の人々が、それぞれに何かを求めて、恐らくは必要以上に集まっていた。一番近い「こだま」停車駅からも本数の少ない電車を乗り継がないと来ることのできない、この街に。実際どれだけの富が個人に舞い込んだかはわからないけれど、ゴールドラッシュは確かにあったのだ。インドネシア料理屋とバーには、その夢の残滓が確かにあった。


アルコールを摂取していなかった同行者と一緒にiwakoさんご夫妻を家まで送った後、何となくそうしたい気分になって、特に思い入れのある施設や工場の近くをドライブして帰途に着いた。
ゴールドラッシュは終わった。街からは人が消えた。でも私は、この街の資源が掘り尽くされたとは、まだ思いたくない。