とりあえず今年もあけまして

今年も無事に年頭の日記が書けることを感謝します。ええ、本当に。オットは(今年も)大阪、母は祖母宅で介護…と、ロケーションがばらばらなのは気にしない。


朝起きたら、どう見てもこれスコティッシュフォールドだろこれ、という全身真っ白な猫が自宅の縁側にいました。しかしその愛らしい耳に大怪我をしていました。


彼(たぶん)を初めて見かけたのはブラジルから帰国した後なので、1カ月程度前でしょうか。猫の雑誌などで見るスコティッシュフォールドに比べて顔立ちそのものは少々不細工だけれども純白の美しい毛足の猫だったので、そうかこの付近の飼い猫なのだな、というのが第一印象です。それからもしばしば実家の縁側に姿を見せていましたが、(他のいかにもな野良猫には、同じ場所でしばしばうちの猫の食べ残しを与えている)母も、「どっかの猫でしょ」と無視していました。


その10日ほど後から、さらに頻繁に実家付近でその猫を見かけるようになりました。明らかに、最初に見た時よりも毛並みが汚く、泥まみれになっています。その後、ゴミ収集所でゴミを漁っているところを、私のみならず父やオットも目撃しました。実家付近には4〜5匹の、からだじゅうの毛が剥げる皮膚病にかかった黒猫や片目がつぶれた猫、皮膚病は回復したもののびっこを引いている猫、だれかれ構わず人間と見ると引っ掻いてくる猫や年中妊娠している汚い斑の猫などはっきり言って野良猫天国なのですが、不思議な事に誰もゴミを漁ってはいません。ゴミを漁るとは猫たちにとっても、できれば避けたいことなのでしょうか。


新年早々、新たな飼い主に拾ってもらえる可能性をわずかに広げる、その特徴的な耳すら喪ってしまったその(すっかり薄汚れてしまった)真っ白な猫に、「何の責任も持てない野良猫に餌をやるべきではない」という社会的モラルを理解しており、日々、母にもその行動は欺瞞であり偽善にすぎないと咎めている私はしかし思わず、うちの駄猫の食べ残しを、母が他の野良猫に与えているのとほぼ同じ分量だけ与えました。


白い猫は私という人間を見て一瞬、緩慢な動きながら逃げ出したものの、私が皿に餌を出しただけであると理解した後は恐る恐る再び縁側に近寄ってきて、食べ始めました。ところが完食はしません。悲しいほど、このくらいの体格の成猫としてマニュアル通りの分量を食べ終わった後、白い猫は去っていきました。あればあるだけ食べてさらに食べ物の無心をする他の野良猫とは、明らかに異なります。…それはつまり、やはり、そういう事なのでしょうか。


新年早々、思わず走ってしまった欺瞞偽善動物愛護的行動について。思ったのは、「当たり前の日常こそ、もっとも稀有で大切にすべき出来事なのだ」ということ。震災とか津波とか原発とか松田直樹心筋梗塞とか、年末にメディアで扱われた事象を引き合いに出すまでもなく、名もない猫にも言える事なのです。もちろん、私にも。


来年も無事に、新しい年を迎えることができますように。